以下はうちの相方が書いた日記なのですが、消すとかのたまいまして、もったいないのでコピペしました。
誤字があるけど直さず載せました。
去年の暮れに亡くなったぼくのおじいちゃん。
几帳面でせっかちな人だった。
90歳まで生きた。
とても厳しい人だったけど、大好きでした。
戦争で中国に渡り、3度も死にかけたそうだ。
1回目はマラリアにかかり(このときの後遺症で耳が片方不自由でした)
2回目は滝壺に落ちて
3回目は山賊に襲われて
それでもおじいちゃんは生きて帰ってきた。
小さい頃からいつもこの話を聞いてきました。
こんなおじいちゃんも自宅で転んだことが原因で亡くなりました。
12月の中頃、「小遣いをやるから来い」と言われたので行くと
先日転んだという話を聞かされました。
むしろ、転んでから腰の調子が良くなったとも。
元気なおじいちゃんを見たのは、これで最後だった。
数日後、かあちゃんが
「おじいちゃん転んでから調子悪いのよ」
「え?」
「あんまりベットからも起きなくなったし」
若干の心配はあったものの、バイトが忙しかったこともあり
家にいるうちには会いに行けなかった。
さらに数日後
「おじいちゃん入院することになったの。もしかしたらやばいかも」
これを聞いた僕は、次の日、何とかバイトの予定を詰めて
車で数分のところにある病院へ。
病室に行くと、大部屋の真ん中。
80歳まで旋盤工をやっていた、鬼のような腕の筋肉をしたおじいちゃんは、そこにはいなかった。
まるで枯れ木のように細く、痛々しいまでに何本もの管に繋がれていた。
信じられなかった。と、いうよりも頭が追い付かない。
意識のないおじいちゃんの枕元に行き、必死に声をかけた。
堅く閉じていた目が開き、うつろな目で僕を見ている。
「あぁ、ゆうちゃんか。」
この時点で目に涙が溜まってきた。
「よくきたね。お小遣いあげるよ」
涙が止まらなかった。
こんな時にまで・・・
30分後、かあちゃんに促され退室し、帰路につく。
次の日
バイトを終わらせ、家に着き、テレビを見ていると、一本の電話が。
かあちゃんが出る。
電話を切った後
「おじいちゃん、いよいよやばいみたい」
予想はしていたものの、こんなに早く来るなんて思わなかった。
弟と3人、急いで車に乗り、病院へ。
受付も済ませず病室へ。
入った瞬間に亡くなった。文字どおり、「瞬間」に。
医者が心肺、瞳孔を確認し、臨終を告げた。
まだ温かかった。
泣き崩れるかあちゃんと弟。
僕は不思議と涙は出なかった。
その後、電話を受けた叔父や叔母が来たので、とりあえず退出。
各方面に電話をし、バイト先へも連絡を入れる。
本当にせっかちなおじいちゃん。
転んでから2週間もたってないのに。
入院して3日しかたってないのに。
早すぎるよ。
でも、本人は良かったかもしれない。
最後まで意識をもっていたからだ。
まさに、花が散るように亡くなっていった。
慌ただしく通夜だの葬式などがすぎていった。
悲しむヒマもなかった。
そのまま、驚くべき速さで新しい年になった。
元旦の夜。
かあちゃんからお年玉袋をもらう。
「なにこれ?」
「おじいちゃんから。」
恥ずかしながらも、毎月小遣いをもらっていました。
几帳面なおじいちゃんは毎月決まった日にくれてました。
1日もずれることなく。
なのに。
お年玉は、12月の頭に、転ぶ二日前にかあちゃんに渡していたそうだ。
まるで自分の死を知っていたかのように・・・
おじいちゃんの死後、はじめて泣いた。
あのとき言った言葉、現実になった。
僕は絶対に使わないと決めた。なにがあっても。
本当にお金がない時期もあった。
それでも歯を食いしばって我慢してきた。
そんなわけで、今でも机の中にしまってある。
なぜ、いまさらこんな日記を書くかというと、思い出したことがあるからだ。
それは
「お母さんたちには内緒だけど、ゆうちゃん、免許のお金出してあげるよ」
と言う言葉だった。
この夏、免許を取るつもりだ。そのために貯金もしてきた。
全部自分のお金で取ると決めた。
でも、このお年玉も、免許代の足しにする。
あの約束が、うそにならないために。
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